肉食獣のライオンが効率的に狩りをするように進化していたら、獲物を捕りつくし、自らも滅んでいただろう。肉食獣は、獲物が逃げる、狩りにしくじることで、自然の仕組みに余裕ができるように進化してきた。人間は「道具」を手にした事で「効率」を生み出した。その結果、自然の余裕を壊してしまう事になった。人間が手にした道具は、巨大技術となり、それを操る人間は国や企業などの組織のもとで、更なる「効率」を追い求めて励む。その結果、大気や生物圏を損ねるだけではなく、自らの心身をも傷めつけることになった。道具と汗によって得た豊かさとは何だったのかが,問い直される。自然界の余裕を失わせるまでに励みすぎた今、人間はしばし手を休めて怠け者になったらいいのではないか。

そのゆとりが,心にも潤いをもたらすであろう。私たちは休養を十分にとっているだろうか。本来、動物としての人間に必要な睡眠時間は,9時間半から10時間くらいと言われる。それからすると、日本人に限らず文明社会の人類は、慢性的な寝不足である。多くの事故の背景に、寝不足に伴う注意力の低下がある。睡眠不足は、ホルモン不調を通じて老化を促進する。夜型生活を享受しながら睡眠を確保するには,昼寝がいい。ナポレオンもチャーチルも,たっぷり昼寝をしていたらしい。昼寝をよみがえせれば、個人の健康や社会の安全だけでなく、省エネルギーにもつながる。職場、街での昼寝の環境づくりが必要だ。ライオンと違う人間の価値とは、何か。仕事と休養のほかに、「暇」という時間をもったことである。それをゆったりと味わえる社会を築きたい。(朝日新聞「社説」より)

 

人間はもともとサルの一員、サルは、群れて集団で生きていく習性、人間も生物性で行動し生きている。群れる事で安心を得る習性は、ご近所づきあいをして生きる欲求に通じている。そこにケータイが出てきた。庶民はいつでもどこでも匿名で世間とつながる事ができるケータイに,安心感を求めて群がった。電脳共同体が旧来の世間に代わって拠り所になったわけだ。日本人の国民性、世間の心性にぴったり合ったわけだ。この広大無限な曖昧模糊とした電脳世間の中で自分をつくらなければならない。となると益々私があいまいになり、わからなくなる。すると何となく,みんなと同じようなことに埋没して同調する事でアイデンティティを作らざるを得なくなり、世間というあり方に依存する。結局,個人ではなく庶民としては一番安心する。IT世間を進化させたのは、ITツールを世間依存、他者依存で生きるために使うツールとして受け止めた事だ。世間は進化したが、人間も社会も退化している。問題の根はツールではなく、ツールに依存した思考停止状態の主体にある。世間の原型モデルは群がるサル集団、サルから進化して行き着く先がサル。周囲=世間に敏感になるのではなく、社会と世間の違いに敏感になるべきだ。(京都大学:正高信男「ケータイでIT世間が蔓延しています」2007から抜粋)

 

日本の社会の原点は水田稲作の共同作業。「お互い様」を基盤に、そのつながりは「横並び」で知恵が磨かれた。周囲の様子をうかがい、顔色を見る、空気を読む、抜きん出てはいけない、同じ共同体にいるもの同士は「結束」、よそ者には排他的になる。要するに「村八分」にならないようにする。こうした共同体意識があったので、機能的なまとまりを得、つながりは益々強くなった。同時に個人というものがない日本人の自己形成の土壌になった。日本人の「私のあり方」は、ひたすら周囲=世間がどう自分を見ているかを意識し、それを内に秘め自分をつくる。周囲を意識したもので自分という境界線はない。欧米社会のように個人と個人が峻別した自他関係がない。

 私もあなたも一緒の人間という「みんな一緒」の感覚,これが日本人の世間の私が人間関係の根本にある。江戸時代の長屋付き合いは,絶対的信頼関係というより、何となくお互いに分かち合うことで、感覚が共有できていることが日本人の社会的関係。それが日本人の安心感であったが、その地縁共同体が今、崩れている。長屋的な名もなき庶民が集まった世間共同体、世間のつながりは、リアルな現実生活においては望むべくもなくなった。しかし、どこかに帰属していたい、「みんな一緒」につながっていることで、心の安定を得る心性は無意識のもので変わらずにあるわけだ。(京都大学:正高信男「ケータイでIT世間が蔓延しています」2007から抜粋)

 

ITツールは、リアルタイムで世界を知ることができるもの。世の中にはこんなにもいろいろな考え方や価値観があるのだということを学び、「私」という「個」の視野を広げるには最適なツールである。それが日本人は逆の対極的な使い方をしている。つまりケータイはコミュニケーションのツールではなく、自我の一部になっている。メッセージ、情報を共有するよりも「情報の共有」自体を共有することに意味を置く使い方をしている。これが「世間づきあい」のための使い方、IT世間である。個の確立どころか、日本人固有の心性と行動パターンの世間がケータイにより強化されたことになる。日本人の国民性の旧来の世間の基層を受継いだIT世間という新しい世界が日本社会にはびこる。

欧米では「私は私、あなたはあなた」と個人同士の間の垣根が高くしっかりしている。その個人と個人の間にあるのが「つきあい」であり、それを円滑にするためのツールとしてケータイを使っている。世間の原理の一つに昔から「贈与報酬」の習慣がある。「世間づきあい」、それをケータイで世間的関係を頻繁に繰返している。贈り物のやり取りがなくなることが、社会のつながり=世間づきあいが途絶えることへの恐れに通じる。世間づきあいとメールのやり取りは何らかわいない「情報の共有」自体を共有することに「世間」はコミュニケーションの意味を置く。日本人にはもともと個人はなかった。日本の中にあるのは庶民であって個人ではない。世間である。社会ではない。自律した個人が作る社会はなく、あるのは世間、現代IT世間は増殖している。(京都大学:正高信男「ケータイでIT世間が蔓延しています」2007から抜粋)

 

仕事は特定の人に集中してはいけない。だからと言って常に均等分担して、全員で行えばよいというものでもない。各々組織内の果たすべき役割に従って分担することにより、全体のパフォーマンスが上がるのである。中でも肝要なのは、仕事のフェーズが切替る際の引継ぎである。これはいわば駅伝におけるバトンタッチである。各ランナー(担当者)は決められた区間(仕事)を全力で走りきる(遂行する)。これは次にバトンを受け継いでくれる走者がいるからこそ全力を出し切れるのであって、例えば決められた区間を走り終えた時点で、次の走者がウォームアップできておらずもう1区間走るような事態を考慮しなければならないとしたら、安心してフルスピードは出せないであろう。駅伝における勝敗はバトンタッチの成否に依存する部分が大きい。プロジェクトの成否もまた担当者の引継・・・

 ここでいう引継とは単なる事務手続き上のことではなく、前任者の築いた財産を受継ぎ、その意図を汲んで発展させることを指す・・・がうまくいくかどうかにかかっているといえるだろう。このような状況下で、他人にバトンを渡さず、あくまでも自分一人でやろうとする者は、駅伝の中でマラソンをしているようなことになる。同じ組織に属していながら、決して他者と同じレースには参加できないのである。多くの場合、このような人は自分がそうした状態に陥っていること、そのために全体の進行を妨げていることに気づかず、かえって全てを自分一人の力でやり遂げたという自己満足に陥りがちである。組織の中で仕事をする場合は、このような状態を回避するため、絶えず全体のレースの組立てを考え、その中で果たすべき役割を念頭に置いて行動しなければならない。各担当者レベルでこのような認識が保たれればよいが、現実にはなかなか難しい。従って、監督がこれにあたるのである。駅伝の各区間が地形によって異なるように、各業務における分担内容は一様ではないはずである。監督(管理者)はレースのシナリオを描き、それにそって各々のコース(業務)にあった選手(社員)を配置する。そして選手の体調、ペース配分などを見守りつつ、ゴールに導くのである。